「であろう」の英訳はむずかしい

用があったから翻訳会社へ訪ねていったが、係の人が降りてくるまで応接室で待つように言われた。その社で訳している雑誌が並んでいるから、自然科学関係の雑誌をパラパラとめくってみる。

おもしろそうなものはなさそうだなと思ったら、日本語の「であろう」にはほどほど手を焼いたという外国人の話が目にとまったから、これはこれはと目を据えた(ロゲルギスト氏の論文)

 日本語のよくできるイギリスの物理学者が日本人の書いた論文を英訳したときに痛感したことらしいが、原文にむやみと「であろう」が出てくる。それをどう訳したらいいか途方にくれた。英語にはぴったり適合する言い回しはないいようだ、というようなことをこのイギリス人はのべている。それほど途方にくれなくてもよさそうだが、どうしてこんなに思いつめるのか、と思いながら、それでもおもしろく、先を読みつづけようと思っているところへ、待ち人が、どうもお待たせして……と言いながら現われた。

 心残りでないこともなかった、もうすこしついでのことなら遅れてきてくれればいいのにと思わぬこともなかったが、いかにも待ちわびていたように席を立つ。帰りにどこかの書店で続きは立読みすることにしようと思っていたのだが、むろん帰りはいいご機嫌になってそんなことは忘れてしまった。明日という日があるにはあるが、明日はまた明日の風が吹いて、前の日のことなど覚えていられるものではない。そのうちに図書館へ行けば次の月になっても見ることができると思ったが、もうそのころには自分でもそれが気休めであることがわかっている。

 それでとうとうこのイギリスの物理学者とはあえない別れをしてしまったから、途方にくれたあと、どういう活路を見いだしたかも知らないが、何もそんなに驚くことはないのである。英語にならないのは何も「であろう」に限らない。外国語が片端から訳せると思うのはそもそも認識不足なのである。翻訳可能なくらいならそのうち世界の言語はひとつになってもいい。それがバペルの塔以来こんなに多くの言語に分れているのは、要するに、ほかの言語では言えないことを言う必要にせまられて独自の言葉が発達しているからである。

 ノーベル物理学賞を受けた江崎博士も論文の翻訳でひどい目に会ったらしい。ただし、これはご自分の論文の話だ。博士はノーベル賞受賞記念の講演を英語でしたが、その原稿を日本語にして雑誌にのせたいという希望が日本からあって、どうせ自分の書いた英語である、母国語にするくらい何でもあるまい、とおそらく高をくくって日本語訳にかかったが、それがとんでもない思い違いで、ひどく厄介な仕事であることを発見してすっかりびっくりした。どうしてこんなに苦労しなくてはならないのか、と考えた博士はやがて日本語のせいであるという結論に達した。

 そのことは『創造性への対話』という本の中にあるのだが、日本語は哲学や科学的思想を表現する手段として不適当ではないかと割り切っている。したがって、大学などで科学をやる学生の教科書は英語のものを使うのがよろしい、とも言う。日本語不信である。日本人は日本語を廃してヨーロッパ語を国語にすれば、もっとたくさんノーベル賞を貰う人が出るのだろうか、と読者に思いこませかねない。