感情と経験の英語表現から始めよう

 英語の教科書は、低学年においては生徒が英語で、何よりも自己表現できることを目指して、身近な事物や毎日の学校で起こることなどを題材にしたらよいと思います。つまり子供たちが、身のまわりの事物、目に入る、あるいは耳にする普通の出来事などについて、英語ではそれを何と言うのだろうかと考えるように、無理なく自然に誘導するのです。そのためできるだけ単語を多く覚えられるような、遊びやゲームを工夫することも大切でしょう。

 たとえば生徒たちに人の顔の絵をおもいおもいに描かせて、そこに目、耳、鼻、口、あご、唇といった英語の単語を書き入れさせ、そして皆で大声をあげて発音練習をします。

 ついで全身に移って身体部分名称をどんどん競争で言わせ、誰も分からないものは先生が補いながら、単語の数を増やしてゆく。次にこれらの身体部位を使う動作や機能を表わす。やさしい動詞を加えたり。形容詞を組み合わせるなどして、短文を考えさせ、それを声をだして言わせたりします。

 つまり自分たちが日々の生活の中で経験する基本的な身体精神現象を、生徒たちが簡単な英語で表現できることを目標に指導するわけです。ためしに数えてみますと、頭と顔だけで約二十の単語があり、手足をふくめた体全体では、更に三十くらいの基本単語があります。これらを適切でしかも基本的な動詞や形容詞と組み合わせれば、じつにいろいろなことが、体や心の動きについて言えるようになるのです。「頭が痛い」「気持が悪い」「昨晩夢をみた」「あんた嫌いよ」のように自分の感情、経験をできる限り英語化することです。この意味では英語で短い日記をつけることも、大変役に立つでしょう。

 ところがこのような身近な英語の単語の中には、現在では外来語として、生徒たちがそれとは知らずに使っているものが。かなりあります。このようなカタカナ語との関連をうまく指摘しながら授業を進めてゆけば、英語などめんどうだ、関係ないやといった拒絶感が減り、だんだんと面白くなって。それこそゲーム感覚でどんどん覚えてしまうものです。

 私はかつて孫の一人と車で長時間走ったとき、後ろの座席で退屈している彼女に、英語ゲームをしようと言って、子供が普段当たり前に使っていると思われる外来語を、次々に言わせたことがあります。たとえば「トンカツのお皿にいつもついてくる、細く切った野菜の名はというふうにしてキャベツと言わせる。そして「それ英語なんだよ。ちょっと言い方は違うけどね。キャベッヂ」といった具合です。また車が赤信号で止まると、「赤って他に何て言ったっけ」と聞くとレッドが出てきました。そうすれば後はグリーン、ホワイト、イエロー、ブルー、ブラック……とかなりの数の色彩語を引き出すのは簡単です。

 こんな遊びで何と二百近くの英語を、小学校一年の子供が既に知っていることが分かり、私も驚きましたが本人も、「ヘーエ、英語ってやさしいんだね」といった調子で喜んだことがあります。

 このような教え方の重要なねらいは、何よりも子供が自発的に面白がって、自分を中心としたまわりの環境を、英語という「めがね」をかけて能動的に眺めて表現すること、つまり本人に「英語で生きる」体験を味わわせることにあります。そして今の目本の社会には、せっかくカタカナ英語が氾濫しているのですから、それを逆手にとって、大いに利用すべきなのです。

 現場の先生方には、こんなことではあまりに幼稚ぽくて、いくらなんも今の中学一年生の知的レベルには。低すぎる目標設定だと思われるかもしれません。しかし入口はやさしくても、この切り口から入るとすぐ後が開けるから不思議です。

 これまで一般に学校での英語の時間といえば、教科書の中に生徒たちの自発性とは無関係に、既に誰か他の人によって表現されてしまっている、ちゃんとできあがった、それだけに生徒からは遊離した、客観的な学習対象としての、冷たい英語が並んでいるわけです。これを生徒が外側の視点から学ぶことを求められるため、英語作品を分解して理解することが英語の勉強となってしまい、結局はただ覚えて暗記するという、面倒な仕事になるのです。

 私のいう発信の手始めとは、生徒が英語という外国語を、単なる道具の一種として、まるで鋏や力ッターで紙を切ったり、くりぬいたりして自分の思う形の切り絵を作るような気持で、身のまわりの世界を切り取って、自分が思うような形に仕上げることなのです。

 つまり生徒たちが、うまくゆかなくてもよい、少しくらい手を切ったり失敗かおるかもしれないが、とにかく自分で能動的・積極的に、鋏のつもりで英語を使いだすのと、既にできあがった、自分とは関係のない、それも外国のことを扱った英語作品を、たとえて言えばまるで生命のない石膏像を前にして、それを眺めて、どこがどうなっているか、目と眉の距離を測ったり、鼻の高さを測定したり(文法的分析)して、あれこれと考えることを求められるのかの違いが、能動的な学習意欲が湧くかとうかを決定的に左右するのです。

 ひとたび自分からの自発と主体性を発揮して、自分なりの英語作品を勝手に作って構わないのだとなれば、学習の結果が信じられないほど違ってきます。

『日本人はなぜ英語ができないか』鈴木孝夫著より