英語と日本語のちがい


 英語では第一人称単数のI(アイ)を用いないで自分の考えていることを書くことは困難であるけれども、日本語ならそんなことは朝飯前である。現にこのブログでも、これまでのところに一度も「私」を使っていないはずだ。書き出しの「用があったから出版社へ訪ねていったが……」のパラグラフはもちろん、次のパラグラフもまたその次も、英語ならアイを使わずには通れないところである。日本語でも、私かぼくを使ったほうがいいと思う人があるが、なんとなくないほうが落ち着くように感じる人もすくなくない。日本語の第一人称は不安定で、私、ぼく、わ(だ)し、おれ、小生、手前、わが輩などいろいろな言い方のあることが第一人称が動揺している何よりの証拠である。

 第一人称は使わなくてすむが、「であろう」という表現は使わないと不便である。どういうときに使うのか、と思って手心との国語辞書に当ってみたが、ろくに説明もない。ひと筋なわではゆかないと見える。たいして意味もなく、である、でもよいところで使うこともある。というのも、日本語の文末語尾は単調になりやすい。同じ動詞、助動詞が続くことがすくなくないから、語尾に変化をつけたほうがよしと思うときに、「であろう」を用いることになるのである。だいたい、日本人には動詞の時制(テンス)の観念がゆるやかだから、「である」なら現在形、「であろう」は推量の未来などと律儀に区別することもない。古池や蛙飛び込む水の音。この動詞「飛び込む」の時制は何だ。過去か現在進行形か、はたまた現在完了形かなどと頭を使うのはすこし変人の部類に属するであろう。そんなことはおのずからわかるはずだとされている。それよりも形を整える必要がある。

 「である」という標準的述部動詞はどうもすこし大げさに感じられる。演説口調を思わせる。自信のない政治家が「…であるのである」と言うのを聞くと滑稽で吹きだしたくなる。さすがにこのごろでは、「であるのである」は姿を消したけれども、まだ、「のである」はかなり有力なものとして残っている。われわれはどうもこういう断定型に抵抗を感じるらしい。同じことならもうすこしソフトな言い方を求める。そこで、「であろう」の出番となる。

 中学生のとき、学校で弁論大会があって、各学年の選手が競ったが、別にこれといった感想をもたないでいたところ、あとで一年上のクラスにいた人が、誰それの話はよかったけれど
も、「…だ」「…である」と決めつけ口調で言ったのは生意気だ。自分の意見なら、「・:だと思う」とか、「ではあるまいか」とか、「であろう」と言うべきだった、とコメントを加えているのを聞いて、なるほどそんなものかと思ったから、いまでも忘れずにいる。片田舎の中学生にもそれくらいのことはわかっていたのである。強い断定が自信を示すのに止まらず、相手にをこのときはじめて知った。数学や幾何の教科書なら、三角形の内角の和は180度なり、A=BでB=Cならば、A=Cである、でおかしくはない。これを、「であろう」などとしたら滑稽である。言い切る動詞の語尾がどうも強すぎるという感じがあるところから、手紙などで比較的近代まで使われていた候文か愛用される。いまでも、候文で書くと思いのほか、手紙が書きやすいということを言う人があるが、これは文末語尾を候で包んでやると、安心して思ったことが言えるということかもしれない。