硬膜外麻酔法:日本で無痛分娩法が普及していない背景


分娩時の痛みは痛みの中でもトップクラスのもので、分娩の開始とともに起こる痛みは、子宮やその周囲の組織の収縮が原因です。子宮の収縮に伴い、胎児は押されて子宮の入り口である子宮頚管を押し広げようとしますが、実は、子宮収縮の痛みよりも、この子宮頸管が広がるときの痛みを主に感じているのです。下腹部や腰は直接圧迫を受けているわけではないのですが、脊髄神経の神経支配が同じであるため、関連通として下腹部や腰に痛みを感じます。そのあとは膣が開く痛みや、骨盤内の組織が刺激されることによる新たな痛みが加わるため、会陰部(膣から肛門にかけて)の痛みが起こり始めます。胎児が生まれるときには、会陰部の伸展に伴う痛みが中心となり、下腹部や腰部の痛みはかなり緩和されます。分娩後も子宮の収縮は続くため、数日間は痛みが続きます。また授乳をすると、子宮はさらに収縮するため痛みは増強します

分娩の痛みは激しいため、欧米では古くから無痛分娩が行われています。1847年、イギリス、エジンバラ大学の産科教授であったシンプソンはクロロホルム麻酔を分娩に応用し、無痛分娩を行い始めました。無痛分娩の是非について論争が行われた時期もありましたが、1853年にビクトリア女王が第八子の出産に際して進んで無痛分娩を受けたことから、イギリスではクロロホルムによる無痛分娩が広く行われるようになりました。

無痛分娩といっても、いろいろな方法があります。現在の主流は硬膜外麻酔による方法ですが、吸入麻酔を主体にしている施設や、両者を併用したりほかの神経ブロックなどの方法を組み合わせて対処している施設など、いろいろあります。この硬膜外麻酔法は、腰から硬膜外に細い管を入れて麻酔薬を注入する方法で、痛みを感じる知覚神経をブロックし、運動神経はほとんどブロックしないようにするものです。

いろいろな無痛分娩法がありますが、日本での無痛分娩の比率は、欧米に比較すると非常に低いものです。分娩を行える施設から見た場合、欧米ではほぼ全施設が無痛分娩が可能であるのに対し、日本の施設では約半分しか対応ができていません。このような現状となっているのには、いくつかの背景があります。

患者側の背景として、「分娩は痛いものであり、それが当然」というものがあるのでしょう。薬や特殊なことをしないで自然に分娩したいという満足感を抱いたり、陣痛を感じたからこそ更なる愛情を持てるようになる、と考えている人も多いでしょう。この考えは「私がお腹を痛めた子だから…」という言葉に現れています。さらには、自然食品のように「自然=安全」という誤解をされている人もいるのでしょう。

一方、医療者側の背景としてPR不足・啓蒙不足があるでしょう。無痛分娩や硬膜外麻酔法などの情報は、社会や患者に対してほとんど公表されていないのが現状で、ごく一部の施設でPRが行われているにすぎません。またマンパワー的な問題点もあります。分娩は24時間体制でバックアップする必要がありますが、無痛分娩を安全に行える麻酔科医の数や看護師・助産婦などの教育・勤務体制などが完全ではないのも事実です。

出産に対する調査では「出産は自然が一番良い」という意見と同程度に「出産の痛みはないほうが良い」「痛みがないほうが恐怖感も少なく安心できる」という意見があります。

無痛分娩を選択するかしないかは全く個人の自由ですが、選択肢が増えることは女性にとって好ましいことだと思います。手術後の痛みに関する考え方がこの10年間でかなり変わったように、分娩時の痛みに対する考え方も今後は少しずつ変わっていくことでしょう。

余談ですが、アメリカ、リッチモンド大学のキンスリー教授が最近発表した興味深い医学論文があります。これによると、「子供を産んだことのあるネズミは、そうでないネズミよりアルツハイマー病などの痴呆症になりにくい」とのことです。つまり「出産経験のあるメスは、脳に変化が起き、記憶力がよくなる」というものです。これは、哺乳類全般にあてはまるという内容の論文ですが、真偽のほどはどうでしょう。