日本語の「愛する」と「love」を比較


 昔、「恍惚」という言葉が新しい意味を帯びて大流行した。「他のことに心をとられて、うっとりしたさま」などといった従来の語義のほうはうっかりすると忘れられかねない。この恍愡にあたる一語を英語の中に求めるとすればecstasy(エクスタシー)であろうが、おもしろいことに、これには古来、聖俗二様の意味がある。俗の意味は「うっとりするほどのはげしい喜び、有頂天」で、聖の意味は「(神に触れる)法悦」である。この両義が併用されているうちに、相互に干渉しあい、影響しあったと思われるが、一方が他方を駆逐することもなく共存してきたのは。めでたいといわなくてはならない。

 昔、中学校の英語の時間で「国王は国民を愛した」という英文があって、これを先生が訳されたとき、生徒はいっせいに笑った。なにがおかしいのか、と先生はけげんな顔をされたが、田舎の中学生にとって「愛した」という日本語は、顔から火のでるほど恥かしいものであった。もちろん、現在のようなきわどい意味をふくめていたわけではなく、漠然と男女間の愛情をあらわす動詞と感じていたのが、謹厳なるべき教室で、こともあろうに、先生の口から発せられた意外さが笑いになったのである。

 日本語の「愛する」は英語の「ラヴ」に比べて意味が性愛に限定されすぎてしまっていることとも関係があるかもしれない。「ジョンはチャールズを愛した」という表現は英語では恥かしくなくても、日本語では、同性が愛するとは……と、とんでもない連想が働くおそれがある。中学生には「ラヴ」と「愛する」とが完全には同義でないことがわかっていなかった。

 一般に「愛する」という語が性愛に偏りすぎてしまっている。日本語ほどではない英語の「ラヴ」にしても、なお、人間的愛情への斜きがいちじるしい。ところが、「ラヴ」は、ごく古い時代から「(神が人を)愛す」「(人が神を)愛す」意味で使われている。つまり、宗教上の愛という意味がある。人間同士の愛と神と人とのおいたの愛か同じ語で現わされるということが、すでに千年もつづいている。ここでも、聖・俗の共存が見られる。

 こういうことは、ほかにも例はいくらでもあるが、宗教が言語を用いている以上、避けられない現象である。いったい言葉というものは事象に対応するものであるけれども、そうかといって、すべての事象ひとつひとつに対応するのではない。一対一の対応をしなければならないのだとると、言葉の数は無限になってしまい、実用にならない。有限の語彙で無限の事象を表現するには同一語彙をいくつもの目的に多用しなくてはならない。一語で何役かを負担してもらうことになる。宗教的用法をもつ語だからといって、俗用に使ってはならないといってはいられないから、聖と俗の言語的交流は、一方が他方の比喩であるといった意識もなく、きわめて自由、活溌に行われると見てよい。

 ただ、ここで注意しなければならないのは、宗教語としての性格のつよい語が世俗的用法へ流用される場合と、逆に一般日常語が宗教的表現に徴用されている場合とがあることである。宗教語中心に考えるならば、前者は流出であり、後者は流入である。現代は、流出と流入においても興味ある時代と考えられるので、この点を中心に、宗教と言葉の問題を考えて見たいと思う。

 言及する例などが多く外国語の背景をもっている。あまり具体的宗教に即しないで、むしろ、一般的な考察を行うには、身近な問題よりも、すこし離れた現象を取り上げたほうが好都合と考えたからでもある。