「脳死」定義の困難さ


 現代医療技術で世をにぎわせていることがらに「脳死」を人の死の判断規準として採用すべきか否かがある。どうして、このような問題が浮かび上がってきたのだろうか? 従来の死の定義で十分ではないのだろうか?

 この問題が出てきたのは、二つの医療技術が開発されたことによる。第一は、人工呼吸器(レスピレイター)という生命維持装置が開発され、脳という臓器が不全ないしそれに近い状態になっても呼吸ができるようになり、したがって心臓を生かしておくことが可能になったことである。第二は、一九六七年十二月三日、南アフリカの心臓専門医クリスティアン・バーナードが心臓移植手術を敢行して以来、臓器移植医療が発展してきたことである(その直後、わが国でも同様の手術が試みられ、失敗に終わった)。

脳死」という考えに取り組むのは、いまとなってはそれほどむずかしくはない。医事法学の専門家がまことに良心的な試行錯誤の記録を提供してくれているからである。その比類のないドキュメント集の中で、「脳死」問題がわが国で出現して以降、自らもかかわった論争の歴史とアメリカで「脳死」判定規準が模索され制度化されてゆく過程とを再構成している。科学革命の初期、ケプラーは『新天文学』(一六〇九年)という著書を世に問い、惑星の軌道が楕円であるという新学説を提示しか。彼のその著をユニークなものにしているのは、完成された思索形態のみを示す論文と異なり、自己の試行錯誤の経過をも赤裸々に提示しているからである。この著書は、そのエピソードと類比的にとらえられうる学問史に残る労作である。
 脳という臓器が不可逆的な不全状態におちいった事態の判定規準は、医学固有の規準で厳格に定められねばならない。が、脳が不全状態におちいっているかどうかの判定は、その臓器の特質から実はむずかしい。とくに、いつ不可逆的不全状態にいたったのかの判定は困難を極める(立花隆脳死問題をめぐる一連の健筆はこの判定規準にかかわっている)。厳密に定められた判定規準は、患者家族が人工呼吸器の取り外しを要求する際に利用される場合があってよいであろう。このようなことは、人工呼吸器を用いての延命治療には多額の費用がかかるので、認められうる。

 問題は、脳の不全状態をもって、人間の個体死と見なしてよいかどうかである。これまで、人間個体の死は、心臓搏動、肺の呼吸運動、瞳孔反射の停止といういわゆる三徴候説をもって慣習的に定義されていた。三つの器官の不全による判定というよりは、そのような判定法が人間の肉体の無への転化を如実に示すものとして誰をも納得させえたからにほかならない。脳の不可逆的不全状態の判定により人工呼吸器を外して心臓もが不全状態におちいった場合、三徴候説によって個体の死が判定されうる。しかし、脳という臓器の不全状態をもって「脳死」とすることには論点先取的な問題が孕まれる。すなわちその判定法には、死んでいるかどうか判然としない状態を「死」として扱ってしまう危険性がある。

 ところが、「脳死」をどうしても認めなければならないとする立場の人々が登場してきた。心臓と肝臓の移植を推進しようとする医師たちである。『脳死を学ぶ』の冒頭部分で注意
を喚起しているように、「脳死」という考えは、臓器移植医療を考慮に入れない限り、正しくは理解することができない。腎臓移植では腎臓を心臓死の死体から取り出しても生着させうるが、心臓と肝臓はそのようなことが事実上困難で、それらの臓器が文字通り生きていなければ生着しないのである。しかも「脳死」の判定が遅くなればなるほど、生着率は低くなる。それゆえ、移植医にとって「脳死」の判定は早ければ早いほどよいのである。それでは臓器移植医療の技術論的問題点はどのようなところにあるのであろうか?