個人でも注目されれば稼げる時代:時間や生産量の重要性低下

 個人が持ち寄った情報の蓄積と、それにともなって個人と個人がつながっていくようなサービスへと、インターネットの世界は推し進められつつある。

 ブログやSNS、掲示板が闊歩するC2Cインターネッ卜の中では、いまや企業と個人は等価値になり、「権威」の価値は相対的に低下している(翻訳業界では未だに企業優位の状態ではあるが…)。

 ではそんな新しいインターネットの世界で、最も価値を持つものは何だろうか。

 二〇〇五年九月、『アテンション- 経営とビジネスのあたらしい視点』という本が刊行された。アメリカの大手コンサルタント企業アクセンチュアシンクタンクに勤めるトーマス・H・ダベンポートとジョン・C・ベックが書いた本である。

 アテンションというのは、直訳すれば「注目」「注意喚起」といったような意味の英単語だ。この本では、現在の世界経済が「アテンションエコノミー」になっているということを説明している。情報が少なかった時代には、人々は情報を持っているマスメディアに群がった。マスメディアにしか情報がなく、人々は情報に飢えていたからだ。

 ところがインターネット時代に入り、情報が大量に流通し、過多になってくると、「ただ情報を持っているだけ」というのでは、人々に見向きもされなくなってしまう。情報を持っているだけでなく、人々に注意喚起し、注目を集めることができるメディア―つまりアテンションを持ったメディアだけが力を持つことができるようになるのである。これがアテンションエコノミーだ。

 『アテンションー』では、次のように説明されている。

 〈前世代の人々にはアテンションの問題はなかった。かりにあったとしても、われわれが直面しているものとは比較にならない。彼らにはインターネット上で増殖し続けるウェブサイトなどなかった。多くて放送局が数局、地元紙、それに雑誌として写真が多い『ライフ』があった。また格別の勉強家は『タイム』や『リーダーズーダイジェスト』などの雑誌を読んだだろう。その後の情報源の爆発的増加を考えると、従来のアテンションの対象は取るに足らないものに見える〉

 同書によれば、二〇世紀の初めまではまだほとんどの人が、入手できる情報のほとんどを読み、修得できるだけの許容量を持っていた。ところが情報はその後、等比級数的に増加するようになり、いまや世界中で年間三十万点の書籍が刊行され、雑誌はアメリカ国内だけでも一万八千点以上が出版されている。二干二百五十億ページもの記事内容が盛り込まれている計算で、食べ物と栄養に関するキ―だけでも二百億ページを超えるという。

 また全米のオフィスでやりとりされる文書の量は、年間一兆六千億枚に上るという。またホームページは世界に二十億ページ以上存在し、米政府の試算では、インターネッ卜上を流れる情報の量は百日ごとに倍に増えているという。

 これだけの分量の情報があふれていると、その中で多くの人々に読まれる情報というのは、ごくわずかしかない。つまりはそれぞれの情報がどれだけ人々の注目(アテンション)を集めるかということが、最大の価値となっているのである。

 もう一度、『アテンションー』から引用しよう。

 〈この新世紀には、時間も生産高もあまり重要でなくなってきている。インターネッ卜社会、知識資本、ネットワーク商取引などの言葉で表現される新時代に、時間の長さや生産高の重量などは、結局のところ、どんな関わりがあるのだろう。速さや知識、創造性がものを言う世界なのに、プロジェクトに注いだアテンションによってではなく、仕事に要した時間の長さや、出荷可能な製品の重さなどの基準で私たちの多くが報酬を得ているのは、奇妙なことではないか〉

 要するにカネや時間、生産量を持っているのが優位なのではなく、いまや、

 「人からどれだけ注目(アテンション)されるか」

 が最大の価値基準になっているという意味である。

 おまけにアテンションというのは、世界の人口が有限である以上、数も有限だ。情報が爆発的に増加していくほどには、アテンションは増えない。複製も不可能で、アテンションの希少性は、今までにないほど高まっているのである。

 かっては、テレビがアテンションの王者だった。人々はテレビから情報を入手し、テレビを娯楽にしていた。多くの人たちが、テレビだけにアテンションしていたのである。

 ところがインターネットの登場で、アテンションがテレビからネッ卜へと少しずつ移りはじめた。このためテレビへのアテンションは、相対的に減り始めている。テレビCMが衰退し、ネット広告が隆盛を迎えるだろうと言われているのは、

 「アテンションは有限で、テレビのアテンションがインターネットに吸い込まれているから」

 と説明できる。