長崎大学医学部の片峰グループは、マウスを使って次のような手間のかかる実験を行った。マウスの脳に、一定量の病原サンプル(ヒトのヤコブ病患者から採取された脳懸濁物)を注射する。以降、二週間ごとに一〇匹のマウスから、脳、唾液腺、牌臓などの臓器を摘出する。そして、各臓器に存在する感染性(感染力)の強さと異常型プリオンタンパク質の量を測定した。感染性の強さは、希釈サンプルを作って健康なマウスに注射し、バイオアッセイを行わねばならない。異常型プリオンタンパク質の蓄積量は、特異抗体を用いるウエスタンプロット法によって行った。この実験は、実際の経日感染と異なり、病原体を脳に直接注射するという手法をとっている。これは実験の日的上、できるだけ潜伏期を短くして、経週を観察したいからである。脳に注射された病原体は、脳に取りつく一方、そこからあふれ出し、末梢(脳以外の身体)に移行すると考えられた。脳では、投与後、四週間までは、投与された病原サンプルとはぼ同じ感染性の強さが維持された後(つまり、投与した病原体がそのままそこに居座った後)、六週目から急激な感染性の増加二週間ごとにはぼ一〇倍近く)が見られる。これとはぼ並行する形で、すなわち六週目以降急激に、脳内の異常型プリオンタンパク質の蓄積量が増大している。このデータだけを見る限り、確かに、感染性(感染力)と異常型プリオンタンパク質の挙動は一致して動いていることになる。

 

 しかし、唾液腺に関するデータはまったく異なった様相を呈した。唾液腺では、投与後、二週間目に急激な(ほぼ一〇〇倍の)感染性の増大が観測された。二週間日では脳の感染性は変化していないので、脳に投与された病原サンプルは、脳自体ではなく、唾液腺に移行してそこで増殖していることになる。しかし、二週間目では、唾液腺に、異常型プリオンタンパク質はほとんど検出されていない。以降、四週目から八週日と、唾液腺の感染性は高い水準で推移する。異常型プリオンタンパク質は四週目でようやく微増するが、このときの存在量は、(ほぼ同じ感染性を示す)六週目の脳に比べて、一〇〇分の一でしかない。感染性に対する異常型プリオンタンパク質量の比は、このように一定していないのだ。唾液腺ではこれ以降、さらに不思議なことが起こる。八週を越えると、唾液腺に存在する感染性は低下する傾向にあるのだ。一〇週目には約一〇分の一に、一四週目にはさらに低下する。唾液腺で増殖した病原体は、唾液腺を後にして別の場所に移行するように見える。しかし、意外なことに、異常型プリオンタンパク質は、八週目以降、急速に増加しているのである。八、一〇、一四週目における感染性と異常型プリオンタンパク質量の変化どころか、完全に逆相関の関係にある。病原体が唾液腺を後にしてから、異常型プリオンタンパク質の蓄積が起こるということは、まさに、この蓄積は、病気の原因というよりはむしろ感染の結果生じた現象(つまり病原体の量跡)のように見える。

 

 脾臓におけるデータも、感染性と異常型プリオンタンパク質量はパラレルに動いていない。脾臓でも、脳に病原サンプル投与後、四週目までに一〇〇倍以上の感染性の増大が見られる。ここでも病原体は一度、脳から出て、牌臓で初期の増殖を行っているようだ。ちなみに脾臓も唾液腺周辺もリンパ組織であり、スポンジ状脳症の病原体は、まずリンパ球をターゲットとしてそこで増殖を行ってから、中枢神経系に侵攻するようである。さて、このようなリンパ組織における初期の急激な感染性の増大が起こるとき、異常型プリオンタンパク質の蓄積量ははとんど増加していないのである(唾液腺のみ二週目まで、その他は四週目まではND、つまり検出できない低レベルにあるということ)。異常型プリオンタンパク質が脾臓に出現するのは、四週目のあと、突然、六週目になってからである。この間、一気に1000倍近く増える。しかし、非常に奇妙なことに、四週目から六週目にかけて、パイオアッセイで測定した感染性のほうはほとんど増加していない。ここでも、感染性と異常型プリオンタンパク質の振る舞いはまったく一致していない。病原体はとこか別の場所へ移動し、そのあとになって異常型プリオンタンパク質が増えるように見える。

プリオン説はほんとうか?』福岡伸一著より