医療の進歩により生じた苦痛

 シャンデリアのような輸液ボトル、もつれる一歩手前のチューブ類、挿管や人工呼吸器などによって、延命は飛躍的になった。だが患者の苦痛やストレスは多大である。百歩譲って、この場合は救命や延命の代償としての苦痛であるとしても、看護師の患者を見る目まで機械的になっていはしないか。

 定時的なバイタルサインの測定と、医師の指示にそった輸液の調節、モニター類の作動の監視に心奪われて、患者の無言の訴えや目の動きを察知し、適切なコミュニケーションの努力を怠ってはいないか。ここにもまた、身動きできない苦痛を感じている患者がいる。自分の意志を伝えることができず、ただ目で看護師の姿を追う患者がいる。分泌物貯留の苦痛、気管内吸引の苦痛があっても、顔をしかめ身をふるわす以外に表現手段をもたない苦痛がある。ICUやCCU以外でも、同質の苦痛はいくらでもあげることができる。チェックリストに添って実施する体位変換や体位ドレナージをはじめ数々の処置は、その日にやらなければならない日課の一つとして流れ作業的に運ばれていはしないだろうか。無言のままで目的達成のためにだけ、そして、できるだけ手早くということで患者の意志や思惑は二の次で事を運んでいはしないか。

 これらは、すべて患者の苦痛の大きな要因である。この他、医療過誤や看護ミスによって、予期しない苦痛に直面することもあり得る。看護過程のあらゆる段階で安全性が強調される所以である。

苦痛に対するケア

 苦痛の多様性、個別性を考えると、その道の険しいことは十分予測されることである。だが、より確かな苦痛のケアの方法をあみ出せたら、医療技術の中身もずいぶん大きく変わるだろうと思われる。

 苦痛のケア上忘れてはならないことは、苦痛は、その苦痛を現在感じている人のものであり、その人が「苦しい」「辛い」「痛い」と言えば、そこには明らかに苦痛が存在するのだということである。客観的にその量や質を測定できないし、「本当に苦しいのか」「痛そうには見えない」などと疑いの目で見ることは、余計に苦痛や疼痛を増強する。そして、苦痛の援助を述べるのに大変矛盾しているようだが、苦痛や疼痛をすっかり軽減したり緩和できるということは、まずあり得ないということを謙虚に認めることが、援助の出発点であると思う。

 また、除痛や鎮痛のための薬剤使用の方法も進歩してきた。これまでともすると、看護師は薬剤使用に対して消極的な考えをもっていた。「できれば鎮痛剤を使用せずに」ということが、患者の苦痛や疼痛をかなり我慢させる結果にもなっていた。その一方で、まったく機械的に医師の指示に頼り、薬剤以外の手段を用いることなく、苦痛に対処してきた傾向もある。いずれの方法も正しいとは言えない。