安楽性の阻害因子

 単に苦痛の軽減や緩和をはかるということではなく、その人が人間らしく生きていくことを保障する概念が安楽性である。したがって、その人の生活様式や生活習慣を尊重して、病気や障害があっても、「患者それぞれの一日が、その人が健康であった日々とできるだけ違わないように保つ」ことが基本になる。しかし、現実の問題として、それを実施していくためには、かなりの高い意識が必要となろう。  ① 基本的生活行動への価値観のゆらぎ  看護の主体的な活動は対象の人々の「生活行動の援助」にあるのだが、現実の医療の実態は、そうした面での活動への価値観を堅持しにくい状況を生み出している。高齢社会を目前に、人々のニーズも高まっているのだが、現実の看護師の仕事のありようの問題がある。つまり、(狭義の)医療面の仕事に大半を割かれる結果、看護師の自由裁量の及ぶこの面での仕事量を減らしているということである。それはとりもなおさず患者へのサービス低下につながり、安楽性を阻害する。  ② 規制が中心の病院での療養生活  入院したら、患者はそれまでの生活の一切を諦めなければならないといったらいいすぎであろうか。安楽性の重要な条件として「変化と選択」ということがある。最も日常的に行われる体位変換もその変化の応用の一つである。体位変換により生理的な面での体圧部分の循環の変化、視野・視界の変化が心理に及ぼす影響などが安楽性につながる。その意味で単調な日課の繰り返しは安楽性を阻害する。  また、病院の規則や規制の押しつけは、患者にとって苦痛以外のなにものでもないだろう。ごく日常的な入浴や食事にしても、本人の意向はほとんど取り入れられず、選択の幅はごく狭い。自分の意志で決定するということが、患者の人間性を尊重する基礎になると思う。  ③ 医療経済的要因  看護の経済面での評価はごく低いものである。医療経済学者らは、「入院中の看護の機能はホテル機能の一部であり、従って看護の費用は室料の中に含まれる」として「看護サービスを病院設備の快適性に従属させ」ている。普通看護料が入院費の中に組みこまれるのは、そうした見方によるものであろうか。  基準看護加算の場合でも、現実の看護労働の質や密度からみて、加算の費用は低いという感じをまぬがれない。個別の生活行動上の必要を満たすつど出来高払い制で支払うことには疑問もあるが、その患者の看護必要度の高低にかかわらず、一律加算というのも問題がある。看護行為そのものの経済的評価が抜きでは、生活行動面での援助技術の確立はますます遅れることは必至であろう。最も迷惑するのは患者その人であることを忘れてはならない。  看護における安全性と安楽性を阻害する要因は、今日の医療体制からくるもののほか、看護師自身がっくり出している面もないとはいえない。患者の生命を守り、病気や障害にかかわらず、人間が人間らしく安全に生きていくことを保障する援助実践の阻害要因を、一つ一つ克服するための努力を惜しんではならないだろう。